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文化財区分
管理番号 0315016
名称 岩村城跡
名称ふりがな いわむらじょうあと
名称英語表記
種別(種目) 記念物(史跡)
地区 岩村 
所在地・住所 岩村町城山3-1-1外15筆
指定 県指定
時代・樹高・幹周囲 江戸
員数・地積等 1ヵ所、8,078u
所有者・保持者 恵那市他
告知・指定年月日 1957年12月19日
告知・指定番号 岐史50,恵史11(57/3/8)
画像01 被写体名:岩村城跡
説明文:
撮影日時:
撮影者:恵那市
撮影場所:岩村町城山3-1-1外15筆
ファイル名:031501601.jpg
収録DVD:2
画像02 被写体名:岩村城跡
説明文:
撮影日時:
撮影者:恵那市
撮影場所:岩村町城山3-1-1外15筆
ファイル名:031501602.jpg
収録DVD:2
画像03 被写体名:岩村城跡
説明文:
撮影日時:
撮影者:恵那市
撮影場所:岩村町城山3-1-1外15筆
ファイル名:031501603.jpg
収録DVD:2
関連サイト 岩村城絵図
URL http://welcome.city.ena.gifu.jp/contents/html/0308001.html
解説
岩村城の創築は源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185)遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に住み、加藤の姓を改めて遠山と称し、美濃遠山氏の発祥となった。景朝は領家という地名の残る付近に居館を造り、その東方にある峻険な山に砦を造った。やがて砦の規模が次第に拡大され、大きい山城へと変貌したのは鎌倉中期で、遠山氏の勢力拡張ととき同じくしている。中世の岩村城は本丸・二の丸を中心として各々の根には曲輪・堀切などを構えていた。
岩村城が近世城郭へとさらに変貌するのは天正〜慶長年間である。河尻秀隆が天正3年(1575)城主となって大修築に着手した。天正10年(1582)団忠正が城主となった後は、森氏の属城となり、慶長6年に城主となった松平家乗によって、現在見られる石垣造りの近世城郭が整備され、城の麓に藩主邸が造られた。
日本三大山城のひとつである岩村城は別称霧ヶ城という。本丸は標高717mの城山に位置し、中世から近世を経て明治維新まで存続した山城としてはもっとも高地にある。峡谷が入り組み、複雑な山容をもつ地形を巧みに利用し、各曲輪を階段状に配置している。山頂部に本丸を構え、この本丸を中心にして三方面に東曲輪、二の丸出丸を配し、本丸と東曲輪を帯曲輪が囲んでいる。二の丸の北には八幡曲輪をおくなど、全体の形態から梯郭式縄張と連郭式の混用型と考えられる。各曲輪はテラス状に構築され、とくに本丸と東曲輪は独立丘で、二の丸ほかが敵の手に落ちてもなお抗戦が可能となっている。
明治6年(1873)に建物は民間へ払い下げとなって姿を消したが、現在も石垣土塁の全遺構が残されており、広大な山城の規模・形状を偲ぶことができる。岩村城の規模を示すものとして『正保岩村城絵図』(内閣文庫蔵)、『享保岩村城絵図』、『明和岩村城絵図』(ともに県指定)がある。
岩村城は外郭を含めると非常に大きい城であるが、一の門の内を本城と考えている。
「一の門」 正式には大手一門という。城下町を一望にできたので、城下町と城の南西、北側の監視は24時間体制で行われていた。番所・多門があり、屋敷もあった。
「土岐門」 大手二の門ともよばれる。岩村遠山勢力が土岐氏を破り、その城門ここへ移したという伝説から土岐門という。土岐門は廃城の際徳祥寺(岩村町飯羽間)へ山門として移されたと言われ、岩村城の貴重な遺構として現存している。
「大手門・三重櫓・畳橋」 大手門へ入るには空堀にかかる橋を渡ったが、敵が迫ると橋板をとりはずすことから畳橋という名がある。大手門の前と後に桝形があり、空堀にのぞんで三重櫓が威容を誇っていた。城下町から見ると天守のようにも見え、敵をあざむいた。
「大手曲輪」 大手門をくぐると大手曲輪の高い石垣がある。この付近の縄張りには山城の近世城郭化に苦心のあとがわかる。
「八幡曲輪」 岩村城創築の祖を祀る八幡宮があったのでその名がある。八幡曲輪には八幡櫓・遠見櫓があり、霧が湧くという伝説の井戸「霧ヶ井」もここにあった。岩村城は霧の湧きやすい地形であることと、けっして涸れることのない井戸と結びつけて伝説がうまれたのであろう。八幡曲輪には氷餅蔵もあった。また俄坂門から大円寺方面へ行ける搦手の道もあった。
「二の丸」 櫓2棟、門が2ヵ所あった。各番所を統括する司令所・役人詰所・朱印蔵・武器蔵・米蔵などがあり、弁天池に弁財天を祀っていた。二の丸の東北部にある石垣は地形の関係から隅欠状の菱形に積まれ、それに沿った建物も菱形をなし菱櫓とよばれた。
「本丸」 山頂部の高い石垣の上にあり、天守はない。二の丸と東曲輪から入る門は埋門で厳重な構えとなっている。二重の本丸櫓、納戸櫓、東西両側に多門櫓があり、城麓に藩主邸が完成するまでは主殿があって城主が居住した。
「東曲輪」 本丸の東にあって水晶山方面に相対していた。東曲輪と本丸の間に長局があった。
「帯曲輪」 二の丸門口から東曲輪・本丸を取りまき、出丸との間を通って二の丸の不明門へ達する細長い曲輪である。現在も残っているが道路と誤認されることが多い。外側に土塀を巡らし、城兵の移動・集結が迅速にでき、本丸防衛に重要な役割を持っていた。
「出丸」 本丸南側の尾根を平らにして設けた曲輪で、武者隠多門など多門3棟、二重櫓2棟、太鼓櫓などがあった。
「井戸」 城内には十数本の井戸があって水は豊富であり、籠城戦にも耐えた。


アクセス情報
中央自動車道恵那ICから国道257号で約20分


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